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第22号テーマ:雑感二題
「社長として」 新しく小泉政権が誕生し、今まで雨雲が漂い閉塞感が蔓延していた日本の政治と経済に、小さいながら風穴が開くかなという国民の期待は大きいのですが、政治も経済も一朝一夕に変わるものではないと思います。特に中小企業を取り巻く経済環境は当分の間は変わらないでしょう。政治がよくなることは結高ネことですし、そうあって欲しい。しかし、それと会社の業績とは別物である。政治が悪いから、業界を取り巻く状況が良くないから自分の会社の業績が良くないのだという経営者がいますが、それは自らの経営者としての自覚のなさと、責任感の欠如を世間に向かって言っているようなものです。世の中どんなに景気が良かろうと悪かろうと、また他社が業績が良かろうと悪かろうと自分の会社の業績の良し悪しには関係のないことなのです。経営者は自分の会社の業績がよければ、経営者として合格であり立派なのです。経営者は自分の会社を立派に経営するための社長であり、社員とその家族の生活人生を守らなければならない大きな責任を負っているのです。 故一倉定先生の語録に、「電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも社長の責任である。」と社長の責任の厳しさを話されておりますが、経営の上に起こることは全て社長の責任であって誰の責任でもないのです。また「良い会社とか悪い会社とかではない。あるのは、良い社長と悪い社長である。」とも言われました。会社は会社そのものが良いとか悪いとかではない。また、社員の質や商品の良し悪しでもない。ましてや政治や経営環境には関係ない。すべて社長の人格と経営にかける情熱とその経営手腕の良し悪しで決まるのです。なんとも耳の痛い言葉であり、身の引き締まる思いです。 経営者に求められるものの一つは、時代の変化を見極め未来のために手を打つ事だと言われます。どんなに頑張っても、ただ現実の状況を守るだけだったり、時代と逆行したことをしていては会社は成長しないどころか衰退してしまいます。常に時代にあった商品の開発や販路の開拓などをし続けなければなりません。これも社長としての重要な仕事なのですが中小企業の社長は意外とされてません。中小企業の経営者の中には、目先のことで精一杯で先々の事まで考えられないという人が多いのですが、それはそれで仕方ない現実でもあるのですが、しかし中小企業といえども、時代の変化を的確に掴み、時代の変化にあった商品開発や製品作り、会社の体質作りをしていく事が大切です。特に今日のデフレ経済の中での厳しい生き残りを賭けた企業間競争では、未来志向のできない会社は衰退の一途をたどるだけだと思います。 先日、若い二代目の社長が私のところに相談に来ました。60年近く続いた製造会社の社長さんでしたが、月末の資金繰りの目途が立たなく、倒産するという事でしたが本当に万策が尽きたようでした。かける言葉もなかったのです。話に聞くところによると、4、5年前から受注減により、業績のじり貧が続いたが、業界のしがらみや目先の事に追われ手を打つことができなかったということです。4、5年前の変化に気が付いた時に手を打っていたら、60年の看板が崩れずに済んだのかもしれませんが後の祭りだったのです。 経営者は、社内・社外の情報を収集し時代の変化や業績の変化を敏感に読み取り、それに手を打つ事が大切なのです。 いつの時代でもそうでありますが、会社は社長の迫ヘに100%かかっていると言っても過言ではないのです。 「日本人として」 今日の日本が抱える最も深刻な問題は、経済的豊かさの中で国民の精神性の崩壊が癌細胞のようにこの国を襲っていることであると私は思うのです。特に国民の国や社会に対する意識の低さは、先進諸国の中では最低でありますが、アジア諸国の中でも中国、韓国やその他の国に比べても日本はかなり低いのです。我々は戦後の経済成長の中で経済力が国の力であり豊かさだと強調され、精神的豊かさや倫理道徳観の大切さに目を向けられなかったのです。特に国民の国に対する意識、要するに国民の国家観はその国の国民力を示すと言われますが、日本人にはこの国家観なるものが大きく欠如しているのです。はたして、この国日本の国民には国家観なるものがあるのだろうかとすら思うのです。戦後教育の中で、自由と平等、人権を徹底的に刷り込まれ、個人の自由と人権だけが尊重され、時には個人の人権が社会の秩序よりも優先されたり、自由の名の下に勝手な振る舞いをすることも許されてきたのです。 そして、この国の政治からも国民からも、国に対する意識や倫理道徳観が喪失していったのです。嘗ては日本人が持っていた礼儀正しさや倫理道徳観はすっかり消え伏せて、子供から若者、大人までが好き勝手な行動が横行する国になってしまったのです。 小さな出来事ですが、先日コンビニの前を通った時の事です。コンビニの前の路上でカップめんを食べ、容器と食べかすを路上に散らかしたまま立ち去ってゆく若者がいましたが、これを見て誰も注意するでもなく横目で見て素通りしてゆくだけでした。私が注意をしたら始末をして帰りましたが、コンビニの店員も注意することもなく、売れればよいだけでカップめんを買えばお湯まで提供しているのです。(明るい社会に貢献などを経営理念にしているコンビニが一方ではこんな若者達を作っているのである。)こんな事は社会の中の小さな出来事の一つでありますが、昨今同じようなことは山ほどあります。 一昨年あたりまで学校の入学式、卒業式で国旗、国歌の実施がされない学校が多くありました。少なくとも広島県では多くの公立学校では行われていなかったのです。学校教育の指針である学習指導要領で実施するように定められているにもかかわらず、国歌を歌わないのは個人の思想信条の自由であると教師も生徒も反対したのです。長年に渡り教室の中では、先生の国旗国歌の反対思想を生徒に徹底的に刷り込んできたのです。毎年入学式の時期になると、学習指導要領に定められた国旗掲揚、国歌斉唱を実施しようとする校長先生と教職員とがトラブルを起こしてきましたが、文部科学省や教育委員会の強い指導で是正されて、今年あたりから多くの学校が整然と実施されました。 そもそも国旗、国歌は思想信条の対象でしょうか。我々はこの国があって先祖があり、親がありそして自分がいることを忘れていないだろうか。この国には古くから(西暦701年頃)元旦には日章旗が掲げられていたし、君が代もその源は古今和歌集(西暦905年)と言われています。それは悠久の縁から育まれながら代々受け継がれてきた日本の文化であり、伝統であり歴史であります。そして、今日国民統合のシンボルなのです。国旗国歌は独立国のシンボルであり主権国家としての証でもあり思想信条の対象ではないのです。これを次世代にしっかり受け継いでいくのが、今日をこの国日本で生きている我々の役目ではないでしょうか。 |
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